第31回『恐怖のち祝杯の夏』
(2006_02_23)

 去年の夏の始まりは、散々だった。そして一転、パラダイスを迎えた夏でもあった。
なんせ、私がこの世で一番嫌いな、暗く湿ったところが大好きで黒くヌラッと光って脚がギザギザで触覚がみゅんみゅん動いて逃げ足が速くて暑くなるとやたら外出好きになるあいつらが、5月から出始めたのだ。
これは、奴らへの憎悪および執着が生み出した、おそらく他の誰にも書き得ない、長い戦いの物語であります。

〜震撼の出会い編〜
 読みもしないくせに古新聞に乗ってたり(保護色なので発見したときのインパクト大)、お皿の陰で帰りそびれて朝を迎えたりする(パニクって急に走り出すのでこっちも飛び上がる)、ゴの野郎たち。たまったものではない。
私が奴らをどれほど嫌いかというと、見た瞬間に、心臓がギゥュンッと痛む。喉元まで心臓が持ち上がる気がする。
今はまだ無理だが、老婆になってからなら、ゴ一匹で私の心臓を止められるはず。郵便受けから二、三匹投げ入れれば、密室殺人完全犯罪も夢ではないと真剣に思う。ああ、書いちゃった。お願いやから実行しんといてね。
そこまで嫌いになってしまった理由は、思い出すのも忌々しい。ハハが、私が幼い頃、一匹のゴを取り逃がしたことによる。
当時の私には、イチゴのボタンがついた大のお気に入りのネグリジェがあって、心の中で毎夜「イチゴのお姫様」になりきって眠りにつくのが非常に楽しみだったのです。
ところが、甘美な眠りがすぐそこに迫ったある夜、居間にでっかいゴが出没。壁際で捕り物を見守るイチゴ姫。片手にスリッパ、片手にキンチョールを持つ爺や…ではなく、ハハ。
シューーーーーッ。
ゴだって死に物狂い。意外と賢いのが頭にくる。パタパタと飛び立ち、最も安全な地に降り立った。そこは、幼い私の胸元。
ふはっ、ふはっ。恐怖のあまり、完全に硬直し呼吸困難に。自己防衛的記憶喪失のなせる業か、その先の身柄確保および処刑は覚えていないけど、私がハハにすんごく高らかに笑われたことは覚えている。記憶に刻まれている。
「ゴ○○○のブローチ!」とハハは言い放ったのですよ!イチゴ姫の胸に、ゴのブローチ!!なんと屈辱的であったことか。姫はあの悔しさを忘れはせぬ。
あれのせいで、ただの“ゴ嫌い”が、常に命の危険にさらされるほどの恐怖症になったのだ。ハハには、深く反省してもらいたい。
あれ以来、奴がどこにいるか常に気になり、ちょっと小耳に挟んだウワサが頭から離れず、目の前に現れようものなら息がとまりそう。決して目がそらせない。
そんな症状は、年々ひどくなるばかり。
あまりにも嫌いで嫌いで嫌いなせいなのに、奴の行動にいちいち振り回され、こんなにも胸を苦しくさせているさまが、傍目には「恋」に見えるらしい。
「なんのかんの言って、好きなんやないの?」と、ハハが神経を逆なでする。
ちっがぁ〜〜〜〜〜うっっ!!!
否定すればするほどアヤシまれるのが、この手の話なのだわ。悔しくて、涙が出そうです。

〜憎悪の日々編〜
 ゴが大・大・大嫌いで、奴を避けるために留学先もわざわざ寒い地域を選んだ(表向きは、日本人留学生を避けて僻地へ行ったことになっている)私も、東京で一人暮らしを始めてしまえば、ゴと向き合わねばならぬ夜もある。
ゴールデンウィークを過ぎたあたりから、私は、室内での移動には常に殺虫剤を携帯するようになる。トイレにだって、持っていく。お風呂にだって、持って入る。
缶に描かれたリアルなイラストが嫌なので、ロサンゼルス土産にもらったペットボトル用の断熱材を被せている。よって、うちの殺虫剤は、パッと見、ビキニを着ているみたい。
7月にもなれば、毎晩、家に帰るのが怖い。奴らの家じゃない、自分ちなのに。理不尽きわまりない。
しかし、もしも奴に遭遇したら。見てしまったからには仕留めねば、一睡もできない日々が始まるので、必死でスプレーを浴びせる。
ボタンを押す手に力が入りすぎて、白く冷たくなる。仕留めた頃には、手が痺れるほどだ。奴の命と引き換えに、こちらまで頭痛がする。床はギトギト。
奴らの何が嫌いって、立ち止まるたびに「考え中っす」と言いたげに揺れる触角。ガキガキ複雑な腹。
殺るときは、まだいい。無我夢中だから。本当につらく長いのは、仕留めてから。
あの艶黒がなんといってもゴの象徴なので、私は、サングラスをかける。黒い視界の中の黒い楕円なら、インパクトが弱まるからですね。
それだけじゃない。古新聞の束から、黒い広告を探す。おすすめは、夜景が使われていることが多いマンションやホテルのもの。理由は、分かるやんね?
そして、横たわった奴と、私の間に、重く静かな時間が流れ始める。
致死量以上をたっぷり浴びせられ、奴の亡骸は、触覚の先までしっとり、これ以上ないほど艶やか。ほんと、泣きそうになる。
さっさと片付ければよいのだけど、どうしても、どうしても、持ち上げられないのだ。下手すると5分以上、ふーん、ふーんと溜息ばかりついて、しゃがみこんだまま、奴を見つめ続けることになる。
どうにもこうにも駄目なときは、誰かに電話。あまりにアホらしくて付き合わせるのがかわいそうなので、最も出番が多いのは、ハハ。もとはといえばハハのせいだから。これを逆恨みと人は言う?
「見とるの?」「うん」「まだ見とるの?」「うん」「さっきからずーっと見とるの?」「…うん」「やめやあ、もう!さっさと片付けたらいいがね。嫌いならそんなにじーっと見たないやろ?」
ええ、ええ、ええ、分かっていますとも。仰るとおりですとも。さっさとやれたら苦労せんのやてーーーっ!
「ああ、なぁんでそんなんになってまったかねえ?」と嘆かれたり、「がーんばれ、がーんばれ」と励まされたり、「はい、やるっ」と掛け声をかけられたりしている間、私はずーっと、奴を見ている。
一度目をそらすと、奴に、自分に負けたようで(とっくに負けてます?)、目が離せないのであります。
ええい、やらねば。意を決し、広告の夜景部分で、すくい取る。黒on黒なら、目立たんへんもんね。
紙の上とはいえ、乗ったときに感じるあの手ごたえと微妙な重み。なんともいえず、嫌なものだ。殺した、私が殺した、と実感する一瞬。
あとは、トイレへ行って、ポイしてジャーッ。
紙で包むなんてようやらんし、ゴミ箱に捨てたら、「あそこに死骸がある」と思うだけで、部屋でゆっくりできないから。
ゾンビのように、よみがえって這い出てこられたら。いや、それよりも、包んだ紙の中で、卵が孵化したら。
ゴミ出しの朝、ふとした瞬間に紙くずが床に落ち、無数のジュニアどもがワーーーーッと部屋中に、床で失神する私の顔面に、散らばっていく。
想像力が豊かすぎるのも、困りものです。
気をつけなくてはならないことが、一つある。かつて、上に述べたような大仕事を終え、脱力したまま数時間を過ごした後、トイレに行ってギャッ。
無防備に便器の蓋を上げて、不覚にもちびりそうになった(ごめんなさい!)ことがあった。
奴の体は軽すぎてプカプカ水に浮いてしまい、流れて行かなかったのだ。あれ以来、ケチらず、少量のトイレットペーパーを手向け、弔うことにしている。
サングラス、黒い広告、親に電話、トイレの惨劇。これがお笑い用のネタだなんて、勘弁してほしい。こっちは真剣なのに。
私の友人は、「殺虫剤なんて一本使い切ったことない」と言うけど、冗談じゃないよ。
シューしているうちに出方が弱くなっていくときのあの焦り。主人公が絶体絶命の場面で、弾切れの鉄砲がカチャッカチャッと空しく音を立てるシーン。まさにあれよ、あれ。
私は一本きっちり使い切るし、ストックもしておく。死骸を泡で固めるやつ、あれは便利。奴をじーっと見つめる時間が、格段に短くなった。
ゴの奴らも、製薬業界も、日々進歩している。私だけが、進歩しない。ああーん、ちきしょーっ。

〜感涙の別れ編〜
 したくもなかった長年の研究により、奴らの「出かけたい気持ち」までもが、我が事のように分かるようになってしまった自分が悲しい。
ああ、この暑さ。この湿り具合。この空気の重さ。出る。確実に出るわ。今夜は奴らの夜遊びナイト。
そういうときには、冗談じゃなく、見る見る。銀座や新宿など繁華街の路上、地下鉄のホーム、住宅街のわき道など、出る出る。
発見した瞬間、慌ててツーステップになってしまったり、飛び上がったり、横っ飛びしたり、よろめいたりするので、人ごみを歩くときは要注意です。視線が痛いの。
そしてそんな夜には、うちの扉の前で深呼吸。いいこと、行くわよ。1.2.3...突入っ。スリッパのすぐ横に殺虫剤が置いてあるので、持ってあがる。
そして、スプレー片手に、家の中を点検。いないわね、いないわね、よし。
そんなある夜、惨劇は起きた。
スプレー片手にすべての窓を開け、やれやれと思ったそのとき。窓の上の壁に、いたのである。黒光りする奴が。すでにこの夏、4匹目の登場。
「おったよ!!」(いたよ!!)
私が奴を発見したときの第一声は、必ずこれ。「きゃー」なんて悲鳴は出ない。「奴がいましたぜ」とばかりに、自分に声をかけてしまうのだ。発見した瞬間から、私は二役。弱っちい素の私と、退治役をする仮の私。
意識してそうなるわけじゃない。大きな問題にぶち当たると、人は自然と最善の方法をひねり出すんだと思うのね。
奴は、高いところにいる。私は、そおおおっと近づいて、下からシューーーーーーーッ。あっ。
敵は、一瞬で飛びのいた。どこ?どこ?どこどこどこどこどこ?どこぉぉぉぉぉぉっ!?
壁にはいない→すぐ下の床にもいない→足元を見る。いない。→ …歴史は、繰り返す。

ひィぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ。

奴は、あろうことか私の右胸の頂上に避難していた。触覚をアッチコッチさせて。イチゴ姫の悲劇ふたたび。
いやあああああああああああああ。
死に物狂いで、半泣きで、私は右胸をはたく。するとそいつは、さささっと、むき出しの右ひじ内側に移動した。私はもう、半狂乱。半狂乱で飛び跳ねまくる。
奴はポロリと床に落ち、パニクったときの典型的行動、くるくるくるっと旋回した…ような…気がする。
実は、よく覚えていない…。あまりのことに、ふぅっと意識が遠のいていたのである。当然のことながら、仕留めそこなった。
その晩の私は、魂の抜けた、完全な抜け殻。放心状態とは、ああいうのを指すのね。ベッドの上に座り込み、まんじりともせず。
夜が明けて、朝日を浴びると、私の中に猛然とわきあがってきたのは怒りだった。
なんで、なぁんで、私がこんな目に遭わねばならんのよ。
あんな黒いチャカチャカした奴らごときに。
私は勝つ。勝ってやる!!
いつの間にか、奴らと私の間で、仁義なき戦いが勃発したのであった。で?ときの声をあげた私が、どうしたか。
無敵のゴキ殺しになったか。ふっ、私がどれほど筋金入りのトラウマ女か、分かってないね?そんなに簡単に生まれ変われたら、苦労はしないのですよ。
どこにどんだけいるかも分からない敵に、自分で立ち向かう気は毛頭ない。しかし、意気地のない私に出せるものは何か。
金だ、金しかない。私の「勝つ」なんてそんなもの。ああ、大人でよかった…。
私は、プロフェッショナルなゴキ殲滅集団を探し出した。ネズミ駆除の片手間にやってるようなのじゃない。ゴ専門。プロのターミネーターは、力強く「ゼロ匹」を請け負った。
約束の日。彼らは、ペアでやってきた。見たこともないような仕事道具を次々に持ち込み、2時間以上かけて、我が家の細部にわたって全仕事を終えた。
ご存知?エアコンのダクト、流しの下の配水管が通る穴はもちろん、洗面台の裏、配電盤など、壁の中へとつながる隙間はすべて、奴らの通用口。ザラザラと残っているフンが、それを証明していた。ああ、眩暈が。
固唾を呑んで作業を見守り、「完了です」の声を聞いた私は、「ではまあ、祝杯を」とグラスになみなみと冷茶を注ぎ、仕事人に手渡した。
彼らは、「うめー」と飲み干し、「一匹でも出たら電話ください」と、さわやかに帰っていった。ああ、素敵。
これが、昨年6月のこと。
そして、ひと夏が過ぎた。プロの仕事の結果?それはもう見事なものででした。6月の時点で既に4匹というハイペースだったのに、あの後は、チビっ子一匹、出なかったんだから。
人は「んなアホな」と笑うかもしれないが、仕事人が来てからというもの、締め切った部屋へ入ったときの空気が、なんだか違う。
「負ける気がしない」などという言葉があるけど、部屋にいても、「出る気がしない」の。興味津々の友達に、私は真剣そのもので答えた。
「もう出ないと思うよ。気配がしないもん」
「気配ぃ??なに、あんた武闘家?それとも仙人?」と笑われた。
なんとでも言いたまえ。私は、奴らの存在を、毛穴で感じるのです。
奴らは、確かにいる。壁の、屋根の、床の向こう側に。しかし、私のテリトリーには、入ってこられない。私には、それでじゅうぶん。
私はようやく、心やすらかに自宅のドアを開けられる夏を、手ぶらで風呂に入れる夏を、早足で台所を駆け抜けなくてもよい夏を、夜中にトイレを我慢しなくてよい夏を、あの幼い悲劇以来初めて、手に入れたのよ。
バンザーーーーーイ!!
バーーンザーーーーーーーイ!!!
ゴのいない暮らし、バンザーーーーーーイ!!!!
今年の夏は、もう怖くない。ああ、なんて素敵なことかしら。夏の夜を心から満喫できるなんて。ビバ・サマー♪