第26回『輪廻転生は何のため?』
(2004_09_29)
 この世は、罪を償うために魂が放り込まれた牢獄なのか。それとも、魂はこの世へ物見遊山に降りて来ていて、楽しまなきゃ損なのか。いろいろな人が、いろいろなことを言う。

 輪廻転生について、最近少し考える。私の周りは最近にわかにスピリチュアル(以下、スピチャ)づいていて、そんな本をもらったり、そんな人達と知り合ったりすることが続いているから。何事にも、「出合う時期」って、あるようで。
 自分の前世なんて、私には見当もつかない。が、確かに、「死んだら終わり」ってことはなかろう。「やりたい放題やり散らかして死んだ奴の勝ち」なんてことも、ないのだろうなと漠然と思う。こういうのは、人類の基本的な知恵として、あらかじめ脳のどこかに刷り込まれている感覚なのだろうか。

 私のお友達は自由が丘に住んでいて、ハイソなお仲間達の間では、前世の鑑定はもちろん魂の浄化や予言などなど、スピチャ行脚はごく当たり前なことらしい。初対面同士、「で、おたくは前世は?」、「えーと、ワタクシ…でした」、「ほほ〜、それはそれは」、「…で観ていただきまして」などとやっているとか。ほえ。
 お友達は「黙って聞いてるけど、ちょっとねぇ」と言う。彼女だって、もちろんどこかで誰かに見てもらって、自分の前世と言われるものを知っているのだ。だけど、言わない。
 「そういう会話って、何かおかしい」という感覚が、彼女にはある。私は、いくらスピチャ系に傾倒しても、そういう部分を失わない彼女が好き。

 前世の鑑定など、もしかすると正しいものもあれば、ほとんどが至極テキトーなものだろうが、とにかく自分の今と照らし合わせながら、自分の人生について考えたり、深く理解する一助とするためにあるのであろう。
 秘密にする必要は全然ないけど、挨拶がわりに言いふらすもんでもない気が。だって、あくまでも今に生まれ、今に生きている人なのだから。知るはずのないことを知ったことに対する畏れとか、そういうの、無くしたらマズイんでないのかな?
 じゃなきゃ、コスプレおたく達がオフ会で「おたくは何を?」、「古くて恐縮ですが“天地無用!”の…」、「ああ〜、いいですねえ。オカダヤで?」などとやっているのと、おんなじ。スピ・プレ?

 私は既に、何度も生まれて来て、死んだことがあるのかしら。記憶はなくとも、そのときの経験は、今の私に少しは役に立っているのかな。
 一度も会ったことがないのに、私が書いたものに深く深く共感してくれる人とは、もしかすると、前世で一言くらいは交わしたことがあるかもしれない。
 私は、どこから来て、どこへ帰るのだろう。「牢獄」も「物見遊山」も、どちらにもひとかけらの真理がありそうだ。
 分からないということは、とりあえず、今ここで頑張っておかねばならないということ。前世や来世が分かったところで、どうにかできるのは今生だけなのだから。
 犯した罪を考えれば、私が今生で解脱などあり得ないので、生まれ変わって来世やり直す罪深き皆様には、またお会いできるはず。そのときはまた初対面になるけど、よろしく。

 くだんの彼女いわく、すべてはもともと一つの大きな塊で、私達はそこから小さな塊としてこの世に生まれ出てきて、死ねば大きな塊の一部に戻るという考え方があるとか。だから、「天草四郎の生まれ変わり」が同時に多発しても、それはそれで筋が通った話なのだという。
 私達が「神」と呼んでいるのは実は、すべての始まりであるその大きな塊のことなのだ、と言う人も、いる。すると実は、私達一人一人だって「神」である、ということもいえそうだ。
 それは、キリスト教徒にとっては、神への冒涜とみなされるらしいが、高校の聖書の授業で学んだ記憶によれば、イエス・キリストは「いと小さき者にしたことは、すなわち私にしたことである」と言ったはずだし…。それって、皆はつながっている、神と一体と言っているようなものでは?

 すべてが一つであるならば。
 こうして分かれてしまった以上、互いの反発は免れないのだろうか。
 私が自分だと、個性だと思い、あたため、頼りにしているものは、一体どれほど「個」なのだろう。