第18回『おねえおばあちゃんの心配事 (前編)』
(2003_09_18)
 この夏、実家に帰って、知ってはいたけれど、改めてブッ飛んだこと。小さい頃の自分のブサイクさ。
夜ふけに、母の愛機であるWindows95がゆるゆると立ち上がるまでの間、何の気なしに戸棚の古いアルバムを開き、「恵理・二歳」と書かれた写真の数々を見て、絶句。かつて大好きな先輩に古い写真を見せ、「整形した?」と言われた暗い過去が蘇ってしまう。離れた目と目、つぶれた鼻、あまりにもへちゃけている…。あれでは、おばあちゃんが心配したはずだわ。

 私が高校三年生の頃、両親が旅行のため留守番にやって来たおばあちゃんは、言った。「アナタは偉いわ。会うたんびにきれいになっとる」と。ちやほやしてくれる男子生徒などいない女子校に通う、お年頃の娘がそんなことを言われて、嬉しくないはずがない。
しっかり聞こえていたくせに、「え、おばあちゃん、何?何?もう一回言って」と浮かれる私に、「いかん。女が器量に自信もつとロクなことない」と、ぴしゃり。そして、「小さい頃は、こんな器量で大丈夫かしらんと随分心配したけど、ま、良かった、良かった」とブツブツ。初めて女の子の孫ができて、嬉しい反面、そのブサイクぶりに人知れず胸を痛めていたらしいおばあちゃんであった。

 その後、私が短大を卒業して、アメリカに留学することを決めたとき。おばあちゃんは、こう言って心配した。「学問つけな生きていけんような器量でものうなったに。なんでそんな遠くまで行かんならん?」
 おばあちゃんの時代には、女の学問というのは、そんなものでもなければ生きてゆきづらい人の、逃避の一種と受け止められていたようだ。「今は、女の人でも大学行ったり、外国で勉強したりするんやて」と、母も私も説明したけれど、最後までに腑に落ちないようだった。

 アメリカに旅立つとき、おばあちゃんは、母と一緒に、はるばる岐阜から成田空港まで見送りに来た。私の乗った飛行機が飛び立つのを見届けることができるものと思っていたらしいが、実際には、出国ゲートへと下っていくエスカレーターに乗る私に手を振ったのが最後。
 たくさん並んでいる中の、どの飛行機に私が乗っているのやら、分からないまま空港を後にしたのが不満そうだったと、後から母に聞いた。

 アメリカに行って間もない頃、一度だけ、おばあちゃんからエアメールが届いた。「貴女は毎日、どんな新しいものを見ているのかしら。貴女にだけは、私の一生を話しておこうかしらと思っています」と書かれていた。
 でも、その後、手紙は届かず。二年半の留学を終え、私が帰国した頃、既に彼女の痴呆が始まっていた。

 最初で最後の手紙から約十二年経った今、おばあちゃんは、現実と忘却の狭間を、行きつ戻りつしている。自分に娘が何人いるのかさえ、忘れてしまっている。ホームに入っている自分を親がたずねてくるかもしれない、そしたらきっと心配するなどと言う。親なんてもうとっくに死んでいると告げられると、取り乱すかと思いきや、「そうかね。そんならいいけど」と受け入れる不思議。
 次女である母の顔を見れば、「こうして皆が訪ねてきてくれる私は幸せ」と手を合わせる反面、最も頻繁に訪れているはずの長女のことを「あの子はちっとも来ん」と言う。家族ですら、持てあまし気味になることがある。

 しかし、盆と正月に私が見舞うとき、おばあちゃんはいつも、冴えている。私のオトコ事情が、どうしても気になるのだ。呆ける前は、確かに祖母であったはずなのだが、いつの間にやら年の離れた姉のようである。
 親指を立てて見せながら「これはどうやの?」と私に突っ込む様子は、八十七歳の、現役の女。時に自分のしているオムツを外し、鞄にしまい込んで出かけようとする呆け老人であるとは、とても思えない。
 「男の人は、いないよりはいた方が楽しいと思うのよ」、「でも、彼氏と結婚は違うものね」、「結婚は、この人だ!っていう感じがなきゃね」などと言う。
 「アナタ自分では分からないかもしれないから、向こうの方から見つけてもらうのがきっといいのね」と言われたときには、「ほんとにそうかも」と考えさせられてしまった。私は、人のことはよく分かるのに、自分のこととなると、とんと分からないから。

 それでもやはり痛いのは、そのつど冴えを見せるとはいえ、すぐに忘れてしまい、五分おきくらいに「どうよ?」と聞いてくること。
 「アナタ、つーんとしてるんじゃないの?」などと心配するので、思わず「いやあ、めちゃめちゃ愛想ふりまいとるよ」と、妙なことを言ってしまった。
 しまった。これでまた、“おねえおばあちゃん”の心配の種を増やしてしまったかもしれない。
(つづく)