第2回『このままじゃ寂しいかもしれない』(2001_04_11)
 ほんの数年前、大学を卒業して初めて勤めた原宿にある貿易会社で、私は社内初の社長秘書として日々悪戦苦闘していた。ヤングアパレル業界らしく、絶対に洗わないというビンテージのジーンズを履きこなす井上君は、25歳の営業係長だった。ちょっと太め、黙っていても笑ってるみたいな目。女子社員は彼のことを「いのっちょ」と呼んだ。彼はチビTの大ヒットを予測し、リメイクジーンズにも早くから目をつけていた。
人気者だった彼は、私に妙なアダ名をつけた。ある日みんなで朝まで飲んで歌った帰り道、「えりっくは一人で東京に来たの?じゃあ、僕がお兄ちゃんになってあげる」と、いつもののんびり口調で言った。私は「ほんとー?ありがとー」と笑った。新宿東口。とっても天気のいい朝だった。あれからすぐ会社を辞めた私は彼と会うこともなかったけれど、なぜだかふと思い出されることが多くて、どうしてるかなぁと気になっていた。

 「知ってた?あの子、死んだんだよ」
かつて一緒に働いていた女の子からの久しぶりの電話。私は声が出なかった。 「突然死だって。会社に来ないから同僚が部屋に行ったらリビングで座布団に座って寝っ転がるみたいに死んでたって。電気もつけっぱなしで、テーブルの上にジュースとかあって、全然死んだ人の部屋じゃないみたいだったって」
 目に浮かんでしまう。何かの瞬間に、彼は一人でラインを越えた。それってどういうこと?なんで行っちゃった?いつも飄々としていたいのっちょの、頭の中にいっぱいつまっていたはずの言葉が、突然、一瞬にして消える。その直前まで、いっぱい、いろんなことを考えていたはずなのに、もう誰にも分からない。伝わらなかったことは、無かったことと同じ?

 私の考えていることなんて、分かってもらえなくていい。私は友人達に対して、いつもどこかでそう思っていた。本当は今でもそう思う。分かってくれるなら心からありがとう。だけどそれは無理だと思うから。苦労して理解してもらうほどの価値があるとは思えないし、分かってもらったところで私の人生は変わらない。だったら誰の邪魔にもならないように、ただ、そういう態度を表に出せば角が立つから、分かりやすい部分しか言わない…。それは、相手に失礼だと、私だって思う。相手を信じていない態度だと。だから、私は後ろめたい。小さな「ごめんね」という気持ちを、私は誰に対しても抱いている。

 でも、「私さえ分かっていればいい」の「私」がパッと消えたらどうなる?世界にとって、「私」は何も思っていなかったのと同じ。それでいい?
 一人で生きてくってそういうことなんだ、と私は初めて実感した。家に帰っても電気がついてないとか、病気のときに一人っきりとか、そんなことに私は怯えたりしない。でも、私の中から一度も外に出ないまま消えていく言葉や気持ちを思うとき、それは寂しいなと初めて思った。「私」に悪いっていうか、「私」がかわいそうっていうか。うまく言えないけれど、人にも自分にも「ごめんね」と思いながら生きるより、どうにかした方がいいんじゃないかと、私は初めて思った。

 本当はこの知らせを聞いたのはちょっと前のことだけど、あまりにもいつまでも生々しく忘れられないので、書けば整理がつくかと思って書いてみた。いのっちょ現れるかなと思ったけれど、最後まで来なかったね。もうとっくに天国への階段を上って、あっちでのんびりしてるんでしょう。
ばいばい、いのっちょ。